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羊蹄山を背に、キッカーの上で宙を舞う佐々木玄

NISEKO LIFE

ニセコに生まれて ─ 地元の山が教えてくれたこと

2026 ─ GEN SASAKI MAGAZINE / 編集部

冬のニセコの朝は、除雪車の音で始まる。夜のあいだに降り積もった雪はときに膝を越え、家々の窓は半分まで雪に埋もれる。世界中のスキーヤーが憧れとともに口にする「JAPOW」は、この村では単なる日常の風景だ。リフトが動き出す前のゲレンデに、圧雪車の跡がまっすぐ伸びている。

いま「ニセコ」と聞けば、多くの人が世界的なスキーリゾートを思い浮かべる。オーストラリアから、ヨーロッパから、アジアから。冬になれば人口の何倍もの人がこの小さな村を訪れ、羊蹄山の麓は幾つもの言語が飛び交う場所になる。

けれど、佐々木玄にとってのニセコは、その前からずっと「地元の山」だった。

1995年、北海道ニセコ町生まれ。物心つく前からスキーを履き、幼い頃から地元の山で自由に滑って育った。コーチに教わったフォームではなく、目の前の地形と雪が先生だった。降りたての雪に最初のラインを引く感覚。木と木の間を縫うリズム。転んでも痛くない雪の柔らかさ。世界有数のパウダースノーが降る場所を「普通の遊び場」として育つこと ─ それがどれほど特別なことだったのかに気づくのは、ずっと後になってからだ。

世界のどこにもない雪が、ここでは当たり前に降る。その「当たり前」こそが、ローカルの原点になった。
朝の光の中、雪煙を上げて滑る佐々木玄
Morning Light ─ 朝の光のパウダー。地元の山は、いまも一番の遊び場だ

外の世界を知って、地元を知る

高校1年の夏、初めての海外ひとり旅でニュージーランドへ渡った。16歳。不安と期待を抱えて向かった南半球で、何よりも夢中になったのはやはりスキーだった。日本とはまったく異なる乾いた空気、氷河が削った荒々しい地形、南半球の逆さまの季節。宿からスキー場までの道のりを、毎日ヒッチハイクで通った。日本の日常では考えられない行動のひとつひとつが挑戦であり、いまも大切な原体験として残っている。

外の雪を知ったからこそ、ニセコの雪の異常なまでの軽さが分かる。外の山を知ったからこそ、羊蹄山を望むこの村の風景が、世界基準で美しいことが分かる。ローカルであることの意味は、外の世界と比べたときに初めて、はっきりと輪郭を持つ。

競技の世界へ、そして競技の先へ

地元の山で磨いた滑りは、やがて競技の世界へと押し出されていく。スロープスタイル・ビッグエアの日本代表としてワールドカップを転戦。世界のトップと同じスタートゲートに立ち、採点され、順位がつく日々。そこで得た技術と経験は、間違いなくいまの滑りの土台になっている。

だが、佐々木玄の本質は、順位の外側にあった。フリーライドスキーで日本一となり、山そのものを相手にする滑りへ。日本人として初めて、世界最高峰のスキーフィルムプロダクション「Matchstick Productions」の作品に出演。2024年にはSMITHから日本人初のシグネイチャーモデルを発売し、フランスの「blackcrows」とパートナー契約を結んだ。日本人が誰も歩いたことのない道を、ひとつずつ進んできた。

ニセコの家で仲間と囲む食卓
Niseko Life ─ 滑った日の夜は、仲間と食卓を囲む。この時間も山の一部だ

それでも、帰る場所はニセコ

世界を回るキャリアを重ねながら、活動の拠点は変わらずニセコにある。理由を難しく語る必要はないのかもしれない。ここには世界一の雪が降り、羊蹄山があり、仲間がいて、相棒の犬・カズがいる。山に登り、滑り、家に帰る。その繰り返しの中に、佐々木玄というスキーヤーのすべての出発点がある。

相棒の犬カズと車内で
With Kazu ─ 相棒のカズ。山へ向かう車の助手席が定位置

彼が大切にしている言葉がある。「ありがたい」。漢字で書けば「有ることが難い」。困難があること自体が、やがて感謝につながる ─ 雪山という、思い通りにならない相手と向き合い続けてきた人間の実感だ。

地元の山で滑り始めた少年は、世界のフィルムに映る場所まで辿り着き、いままたその経験をニセコに持ち帰ろうとしている。このマガジンは、その往復の記録でもある。